スイマー

彼女は人魚だった。
初めて彼女の泳ぎを見たとき、身体の中をびりびりとした感情が伝った。僕が昔求めていた感覚にそっくりだった。いや、それ以上に気持ちが良かった。
水に求められているようにプールに飛び込んで、滑らかに水の中に消えていく。そのあとぐんぐんスピードを増して、やっと彼女の後頭部を水面に捉えた瞬間、僕の全身に鳥肌が立つ。波が踊り、飛沫があがった。その姿が、水を得た魚のように生き生きとしている上、神々しいほどに美しかったから、僕は彼女のことを人魚だと思った。僕の身体は、ざーっと鳥肌が立ち、目からは涙が出そうになる。これほど、綺麗に泳ぐ人など見たことが無い。
その姿を見たとき、悟った。彼女は僕の希望なのだ。長く暗い夜がやっと朝に変わったような気分だった。

今は、水泳部のマネージャーをしているが、僕も、もともとは選手だった。才能があるわけではなかったから、部に必要とされていたわけではないけれど。でも、僕は水泳を必要としていた。水の中を泳ぐのはとても心地よく、それでいて何か足りない。その焦燥感を感じるたび、僕はある種のエクスタシーを感じ、絶頂へと導かれた。刻々と過ぎていく日々の中で、この瞬間だけが流動的で生きている心地がした。
しかし、その至福は長くは続かなかった。事件は去年の夏に起こった。自転車に乗っていた僕に、乗用車が突っ込んできたのだ。全身に打撲をした。一番痛みを訴えていたのは足。幸いなことに、近くで目撃した人がすぐに救急車を呼んでくれた。医師は「そんなに深い傷はではないから安心しなさい」と言った。僕はすぐに水の中に戻れると思って少し安堵した。それなのに、退院直前に医師に呼び出され「水泳はやめたほうがいい。身体に負担が大きすぎる。下手をすれば私生活に支障が出る可能性がある」と言った。最初の話との矛盾にいらいらする。余りに理不尽である。きっと、最初にショックを与えるのは危ないとして嘘をついたのだろう。最善の策だと思ったに違いない。否、嘘をついて希望を持たせるくらいなら始めから、光など見せなければいいのに。僕は深い闇に取り込まれたように感じた。こうして、僕の水泳人生はあっけなく幕を閉じてしまった。
本当は水泳をするためにリハビリしたら、もしかしたら出来るようになったかもしれない。しかし、僕はやらなかった。それは、ささやかな反抗であり、諦めだった。水泳の喪失感が強く、再起の努力をする気にならなかったからだ。
だから、僕から水泳は永遠に奪われてしまった。退院して学校に戻ったが、やる気がなかったから親に嘘をついて学校を休みだした。
たまには学校に行かないと単位が取れなくなってしまうので、学校に行ったり、休んだりを繰返してなんとか単位を取得。出席日数は足りなかったらしいが、親が頼み込んだらしい。正直、ばかばかしかった。何もやる気が無かった。家に居てもごろごろするか、漫画を読むことくらいしかしなかったし。学校に居たところでそこまで楽しいことは無い。一人きりになった僕に気付いて、偽善者の友達が話しかけてくる。そして僕はソレを無視する、或いは適当に受け流す。相手は当然楽しくないから自然と離れていく。一人きりのサイクルは既に確立されていた。
進級し、新しい教室になる。この頃、桜が満開だった。僕は桜が好きではない。同じ学年の女生徒が桜の花びらを捕まえようとはしゃいでいるのを見ると吐き気を催しそうになる。水色の空までもピンクに染まってしまうのは気持ち悪い。淫乱、そんな風に僕は捕らえてしまう。桜色はショッキングピンクではないけれど、それが逆に快楽に誘っているように見える。また、最初は薄いピンクだった花びらが、人に踏まれ、土に穢され、道路を汚すのもキライな理由の一つ。
彼女に会ったのは、桜が散り終えて葉桜になりかける頃だった。事故にあってからは、水泳部に顔を出すことは無かった。自分が泳げないというのを再認識するのがイヤだったから。その日はたまたま暇を持て余していて。事故から時間も経っていたから、そこまで泳げないことにショックを感じることも少なくなっていた。そんなときに、ふと、水泳部にいこうと思いついた。別に、誰かが喜んでくれるのを望むわけでも、居場所を分け与えてくれるのを待っていたわけでもなかった。ただ、なんとなくそう、なんとなく行く気になった。別にそれを運命だとか、誇張しようとは全く思わないし、必然であるとも思わない。単純にただの気紛れでしかなかった。
学校にあるプールは屋内プール。室内に入ったとき、まるで自然だった。自分は異質なものではなく、自然であり続けた。特に人に注目されるわけでもなくその空間に入った。ただ、時間が経つとともに、何かが昔と変わっていることに気が付いた。それはただ周りを見渡してもわからない。今度は、プールに目を移し、泳いでいる人を観察していく。そのときだった、彼女の存在が目にとまったのは。思わず凝視した。少し身を乗り出して食い入るように彼女を見ていた。彼女の泳ぎには全く無駄がなく、美しかった。そう思った瞬間心臓に強い圧迫感を覚え、一瞬息が止まりそうになった。その日は、その場から動く事無く彼女のことだけ見ていた。腕のストローク、バタ足、息継ぎの仕方、ターンのタイミング、全てが完成されていた。僕の中で何かが弾けて、同時に満たされた。しばらくして、彼女がプールからあがった。それで僕は部活終了時間だということに気付いた。僕は彼女を見ていたときに乱れてしまった呼吸を整えようと深呼吸をしていた。そのとき、誰かに肩を叩かれた。それは、昔、水泳部で一緒に泳いでいた奴だった。今は副部長をやっていると聞いた気がする。そいつは、水泳部にまた来ないか?と誘ってきた。しかし、僕は今泳げない。それを告げると、「そんなことはとっくに知っているよ。」と馬鹿にしたように笑った。その見下した笑みに腹を立て「じゃあなんだよ。」と感情的にたずねると、「マネージャーは?」と言った。マネージャーといえば、選手のタイムを計ったり、サポートをする仕事だ。別に泳ぐわけではないから僕でもできるはずだ、とそいつは説明を加えた。僕は迷った。今までの僕なら即答だっただろうが、あの泳ぎを見せられてしまっては…
「清水…。清水のマネージャーなら文句は無いだろう?」とそいつは含み笑いをともなって尋ねた。「しみず…?」清水がわからない僕は聞き返すしかない。「今日ずっと清水のことを見ていただろう?」言われた瞬間に、はっとした。彼女は清水なのだ。「水泳部は維持できないほど部員が居ないわけではない。だけど、幽霊部員は多い。生徒会のクラブ調査でひっかかる。できるだけ動ける人数は多いほうがいい。君は清水を見ていられる。なあ、これならいいだろう?」僕はうなずくしかなかった。どうしても彼女の誘惑に勝てなかった。彼女が直接誘惑したわけではないけれど、滑るように泳ぐ姿は僕のリビドーを高めるに十分な要素を持っていた。
彼女は一個下の後輩だった。彼女とはめったに話をしない。お互いに人なつこい性分ではない。彼女は比較的無愛想だった。しかし、躯はすらりと伸びていて誰もがはっとするほど姿勢が良い。また、無表情であることで大人の色香さえ感じさせた。彼女が濡れた長い髪をかきあげる様は周りの皆の注目を集める。
まさにエロチシズムだった。ただ、人に対して無関心だったから人から好かれることはあまり無いようだったし、彼女も気にしていなかった。
彼女が唯一心から輝いているときは水に入っているときだけ。飛び込む瞬間、既に彼女の表情が変わっている。時々、彼女派は水を司る女神様でないかと思ってしまう。彼女は水を必要とし、水もまた彼女を必要としているのだ。僕は少しだけ自分が事故にあった理由が分かってしまった。それを知って安堵した。
彼女を見つめているだけで、僕は心の奥が熱くなってくる。これは、恋ではない。いつかの希望と焦燥感が同時に襲ってくる。なんて美しいのだろう。彼女が泳ぎつづければ、いつか世界が光、否、水とともに包まれてしまうはずだ。
僕はこの世界を手放したくは無かった。
静かに彼女のことを見つめていたいと思った。自分が泳げないことなどとっくに忘れ去った僕は、彼女の姿に恍惚としてきっと今日も終わる。